暇人による暇人の為の妄想

妄想を垂れ流してます。拙い日本語は大目に見てください。

萌えイラストをキモいと思わない理由

 

はじめに

近年、アニメや漫画には日本を代表する産業の一つになりつつある。
アニメ、漫画作品。とりわけ萌えと言われるジャンルの作品と、その他のエンターテインメントコンテンツとの最も大きな違いは、人物キャラクターの描き方にある。それらの人物キャラクターは、現実とかけ離れたデザインで描かれている。だが、私含む多くのオタクはそれらの人物キャラクターに対して「かわいい」という感情を抱くことができる。鬼滅の刃のヒットを見ると、一般的日本人にも当てはまらないとは言えないだろう。

でも、なぜ私たちはそれをかわいいと思えるのだろうか。現実に、異常な大きさの目小さすぎる鼻、奇想天外な髪色の少女が現れたら私たちは気味悪がり、恐怖するはずだ。そこまで思わないにしても、少なくても、かわいいとは思えないだろう。でも、私を含め多くの人は萌え絵をかわいい感じている。今回はこの問題について考える。

 

萌え絵の定義

萌え絵とは、萌えを感じるイラストのことである。では萌えとは何か。萌えとは体験であり感情であり、それらの総称。また、言葉自体が最近生まれ、コミニティによって形成さた俗語であることから明確な定義は存在しない。解釈は人の数だけあり、正解はないのだ。

とはいえ、話を進める為に最低限の共通認識は必要になるので、今回取り扱う「萌え」について定義する。「萌え」とは、対象に抱くかわいいという好意。萌え絵はその感情を抱くイラストで、今回はその中でも日本の美少女アニメに代表される、目が大きく、鼻が小さい女性キャラクターを指す言葉として使う。よくわからなければ、検索エンジンで「萌え絵」と検索して出てくるイラストの事を指している考えればよい。

大前提として、私たちは萌え絵のキャラクターを人間と認識している。
それは、人間の服を着て日本語をしゃべり、時に性の対象とされる事からも明らかだ。
だが、これは矛盾している。

現実の存在を可愛いと認識する時、目、鼻、口、などや顔全体のバランスなど多くの要素を使い、対象がかわいいかどうかを判断する。だが、萌え絵の女性キャラクターには人間の顔に必要な要素が不十分で、また目などは明らかに現実の存在よりも大きく、過剰に誇張されている。

しかし、私はそれを現実の人間に対してと同じかそれ以上に、かわいいと認識できている。つまり、人間としてかわいいと認識しているはずなのに、同時に人間にはない特徴を持っているというのは矛盾になるという事だ。

 

本題

この矛盾は、要素が不明瞭だというところと、要素が誇張されているという二つの原因に起因する。よってこの二つの原因を解決することによって、最終的に矛盾を解決することとする。

二つの原因を同時に考えるのは複雑で困難なので、まずは一つ目の、要素が不明瞭だという原因について考える。解決の為のとして、最も有力なのは、キャラクターに不明瞭な要素があっても、それをっている存在にえているというだ。前したとおり萌え絵のキャラクターには不明瞭な要素が多い。絵は細部する情を私たちにえず、短絡的に考えれば絵が描く存在を解できなくなるはずだが、私たちは絵が何を表しているか解できる。もちろ解できるからこそ萌え絵とべるじゃないかと言えば、この話は終わるが、それは本的になぜかわいい人間と解できているかを明していない。鼻がない絵でも、これ「人間じゃない」とならないのは、私たちが「人間には鼻があるものだ」という常識によって絵をって、鼻を内で作り出しているからだと明できる。

だからこそ、絵は詳細を描かなくても問題がないのだ。そして、現代日本人的な美の価値によれば大きい鼻はあまり積極的な要素ではない。その積極的ではない要素を描かないことによって、かわいいを助長ているのではないかとも考えられる。だが、現実の人間に鼻のない人間がたら、それは恐怖の対象になってしまうだろう。とはいえ、鼻をしっかりと描いた萌え絵はあまり魅力的ではなくなってしまう。この、要素を描かないことによってかわいいを助長しているという考えは事実の不一生するどに未完成なので、度にしてもらいたい。

さて、話はそれたが、不明瞭な要素は現実の存在を使いっているというのがこのだ。
二つ目の要素が過剰に誇張されている原因に対する最も有力明は、キャラクターの誇張された要素は、実にはその誇張されたもの自体を表現しているのではなく、何かを表すための出という明だ。分かりにくい文章になってしまったが、をイメージしてもらえばわかりやすい。を使えば、現実に何かにることはないのだから、現実とは認識できなくなるが、それによって迫力出できる。私たちはによって迫力を感じられのだ。よって過剰に出されたには意味があったとえいる。これを応用し、大きな目はかわいいを想さる要素だと定すれば、大きな目はかわいいを生さるためののようなもので、それが現実的かどうかには関係なく、感情き起こす為のものだ考えられる。

つまり、大きな目それ自体が現実的かどうかはあまり要ではなく、それによってき起
こされる感情のうを要としているという事だ。ちなに、この場その感情は「かわいい」になる。だが、これは大きな目がラーではない理由にはならない。この問題はとてもしいが、おそらくは常識のいだ。萌え絵の適切な目の大きさは、日本人やオタクコンテンツにれるものとって、かわいさだという事が共通認識になっているからだ、という事だ。
その証拠に、その常識を持たない人は気持ち悪いと思うし、私たちオタクだって異常にでかい目の萌え絵は作画崩壊と言ってう。だが、その常識がなぜ成しているのかという事は今回の題の一部になるので、これは明として不十分だとも言える。しかしながら、私人のではこれ以上しく分することはできなかったので、これらの明を持って、結論とする。

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